誰も守ってくれない

『誰も守ってくれない』
いい映画だった。

犯罪者の家族である中学生のその妹を守る刑事の姿を通して、物語は進む。

『加害者側』であることを理由に、人権を踏みにじり人格を否定するような容赦無い攻撃を加える、マスコミやネットの住人。

加害者と被害者。
それを取り巻く警察や報道の対応は、どうあるべきか。

人が人を罪に定め糾弾することに、どう正当性を見出すのか。

情報化社会、ネットの掲示板などで、日々巻き起こる匿名の悪意、遊び半分での人格への攻撃、こんな時代に、人間の尊厳とは、どうあるべきか。

人を失うということ、人を守るということ、人は信じ、人は裏切る。

様々な問題を抱えつつ、けして頭ごなしに答えを押し付ける訳ではなく、最初から最後まで、映画的エンターテイメント性を遺憾無く発揮しながら見せてくれる。

チャンドラーの小説に、こんな言葉がある。

『人は、強くないと生きていけない。人は、優しくないと生きる価値が無い。』

同じように、
『人は、誰も守ってくれなくても、生きていかなければならない。人は、助けが必要な誰かを守れないなら、生きる価値が無い。』
  
主題歌に、リベラの”You were there”が使われていることから、キリスト教的なメッセージがあるのかとも思う。

そして思い出すのが、ヨハネによる福音書、第8章の1〜11節

『イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕えられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。
「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
イエスを試して、訴える口実を作るために、こう言ったのである。
イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。
「あなたたちの中で、罪を犯したことの無い者が、まず、この女に石を投げなさい。」
そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
これを聞いた者は、年長者からはじまって、一人、また一人と、立ち去ってしまい、イエス一人と、真ん中にいた女が残った。
イエスは、身を起こして言われた。
「婦人よ、あの人たちは、どこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか」
女が、「主よ、誰も」と言うと、イエスは言われた。
「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」』

人の落ち度を糾弾し、誹謗中傷するなら、その前に、自分が100%正しい人間と言えるのか、己の糾弾する罪や愚かさと100%無縁であり得たのか、確かめてからにしなければならない。
それが誠意というものだ。

考えの足りない人や、匿名のベールに隠れた(つもりの)人は、こうした心のブレーキが麻痺してしまう。

情報化社会が、人の生活を侵食してゆくにつれて、人は考える余裕が無くなり、望まなくていい匿名のベールを被せられて、優しさというものが失われていくように思う。

このことも本作では、しっかりと描き出されていて、共感した。

『いい映画』というのは、人それぞれだ。
感情移入できる人間や舞台があって、世界観や問題意識を共有できるのが『いい映画』。

この映画は、僕にとって、とてもいい映画だった。

カテゴリー: ブログ