流れる川の水は腐らないが、その水をコップにすくって放っておくとやがて腐ってくる。
人間もまた、動かずとどまり停滞するがままに任せておけば、思考は濁り、その目は曇る。
万物は高きから低きに流れ、まとまりは拡散し、乱雑さと不確定性を増大させてゆく。
人間もまた、自ら律し、こらえるところがなければ、際限なき落下と乱雑化に任せるままとなる。
誰しも経験があるだろう。
幼い頃は長かった日々が、歳をとるにつれ短くなってゆく。
幼い頃は何もかもが新鮮で、よく覚え、よく感じられたのが、歳をとるにつれ覚えることにも感じることにも鈍くなってゆく。
人間の意識を一つの部屋としてみる。
誕生間もないタブラ・ラサの意識は、きれいに調えられた真新しい部屋だ。
新しく入ってくるものは何でもよく目立ち、どこに置いてあるかも一目瞭然だ。
しかし時が経つに任せていると、部屋は汚れ散らかり、新しいものも大して目立たず、古いものがなくなっても気づかず、何がどこに置いてあるかもわからなくなってくる。
歳をとるに任せた人間の意識は、そんな汚れ散らかった部屋のようなものだ。
人は変われるだろうか。
人は生まれ変われるだろうか。
少なくとも自然の惰性に任せていたのでは、人はただ乱雑さに埋もれていくように思う。
新鮮で鋭敏な感覚を、的確で明晰な思考を経験し続けるには、自らの意識を綺麗に入念に手入れしなければならないだろう。
何を思い、何を学び、何を感じるかはよく吟味されなければならず、
乱雑さを招く不要な記憶、思い出や迷いや、意識のなかのあらゆるものは捨て去られなければならないのかもしれない。
あるいは人間をかたちづくるのに本当に必要なものは驚くほど少ないのかもしれない。
自分のあり方をシンプルに局限して極めることが、あるいは最も強く幸せな生き方かもしれない。
それは綺麗で住み心地のよい部屋のようなものだろう。
そのためにこそ、人は多くを拒み、多くを捨て去り、
足ることを知らなければならないだろう。
求めれば求めるほど、疑えば疑うほど、
考えれば考えるほど、語れば語るほど、
意識のエントロピーはただ増大するのみ。
もはや私の言葉は意味を成さず、ただ乱雑さに埋もれてゆくのみ。
ならば今はただ、目を閉じ口を閉じ、今の世界を肯定もせず否定もせず、
意識のなかを、心のなかを、掃除して、整理しよう。
太陽と青空の下、生きていくことがシンプルで、ありのままに輝いていた頃、あの時のような気持ちに、いつかまた戻れるだろか。