神を信じるとはどういうことだろうか。僕は心のどこかで絶えずこのことを考えている気がする。 ・神はいるのか古今東西で絶えずくりかえされてきた問い。様々なアプローチがあり得る問い。誰かが「神はいる」と断言したところで、信じるわけにはいかない。誰かが「神はいない」と断言したところで、信じるわけにはいかない。「リンゴはあるのか、ないのか」と問うとき、リンゴが一体どういうものであるのか知っていなければならない。「花は美しい」と言うとき、花とは何を指すのか、美しいとは何を意味するのか、具象的な領域と形而上的な領域で一致がなければならない。「神はいるのか」と問うとき、その問いの対象と認識について他人との一致はまず不可能であると諦めなければならない。なぜなら人間は皆、神について盲目だからだ。こんなたとえ話がある。盲目の男が4人いた。ある日彼らは象という生き物がなんであるか話し合った。象の鼻を触った一人目曰く「私は知っている。象とは長くて太い蛇のような生き物だ。」。象の耳を触った二人目曰く「私は知っている。象とは薄い皮を垂れ下げている生き物だ。」。象の足を触った三人目曰く「私は知っている。象とは太い柱のような生き物だ。」。象の尻尾を触った四人目曰く「私は知っている。象とは紐のような生き物だ」。人間が神について考えるとき、常に同じようなことがもっとひどい形で起きている。なぜなら人間と神の大きさの違いは、人間と象の大きさの違いより遥かに大きく、人間が神について触れて知ることのできる部位や性状はそれだけずっと限局されているからだ。だから他人が神の是非を押しつけてきても、それはナンセンスなことであると悟ることができる。最後は個人の知覚、知識、経験、感性と理性をフルに動員して取り組まなければならない。・神を気にかける意味はあるのか神がいるとして、神は何か人間と係わっているのだろうか、人間を気にかけているのだろうか、神に祈るとき聞き届けるのだろうか、神を信じれば善となるのか、もしそうでないなら神はいてもいなくてもどうでもよいものだし、いないものと仮定する方がずっと現実的だ。神への無関心。この問題は神の実在を問う以前の試金石として重大だ。現代人は明に暗に、神を信じることは罪であると説く。神の存在や信仰を前提におく意見やコンテンツが公共のメディアで紹介されることは、神の存在や信仰を否定・揶揄する意見やコンテンツが紹介されることに比べて遥か遥かに少ない。現代人が神に関心を抱くには、社会の在り方や現代の人間性の在り方、世間的に形成される実存に内在する矛盾を見抜き、常識とされる価値観に疑問を感じる他に道はない。幸か不幸かそういう人は少なくない。矛盾を見抜き、疑問を感じた。さあどうする。ここから神に関心を抱くには、さらに選択を経なければならない。多くは自らの力、能力、欲望、願望、思想、アイデアによって、自分の納得にいくように改革しよう、作り変えようという方向にすすむ。それが社会の称賛するやり方だ。しかしここでさらなる矛盾と疑問に気づくことができる。すなわち、これでは結局のところ、メビウスの環にすぎなくはないか。自己啓発だの、社会改革だのと言ってみても、結局は深いところで他人からの暗示によって動き、かつて矛盾と疑問を感じた体制の支配のもとに手篭められているにすぎないのではないか。そうしていつの間にか、今度は自分の思い行いが矛盾と疑問の被写体となってはいないか。人間というのは、小さい世界に安住して何もかも思い通りになっている限り、滅多に神を思うことはない。たとえば、ゲームに没頭しているときに誰がどのようにしてそのゲームを開発したかなど気にかけるものなどいない。そのゲームがうまい自分が一番偉いと錯覚する。たとえば、計算をするときに神は必要ない。1+1=2であると断定できる。なぜなら、計算は人間が考え作り上げたものだからだ。われわれは人間が計算して作った制度のもと、人間が計算してつくったインフラ・住居のなかに住んでいる。人生も計算づくだ。いい学歴+いい会社=いい人生。高身長+高学歴+高収入=いい結婚。世の中はそんな類の公式や偏差値であふれかえっている。そうして自分や他人の全存在を一公式のつまらない一変数にまで矮小化し、単純化することを当然と考えて生きている。しかし人生のあるとき、それは大抵前触れもなく突然やってくる。現実の人間社会や多重的複合的な力学が絡み合う現象世界を、机上の数式方程式で語ることの不確実性、それでもってすべてを分かったつもりになることの愚かさ、傲慢の過ちを思い知らされる瞬間が。それまで安住していた小さな公式の世界から飛び出してしまう瞬間、はじき出されてしまう瞬間が。目から鱗がとれる瞬間が。それまでの自分が死ぬ瞬間が。